ポルシェの歴史①ポルシェ博士のポルシェ911誕生前の偉業

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前置き

ご存じの方も多いかもしれませんが、実はポルシェの始祖、フェルディナント・ポルシェはポルシェ911を作った訳ではないんです。


ポルシェの名前の付く最初の車ポルシェ356も長男フェルディナント・アントン・エルンスト・ポルシェが中心となり作られており、博士の死後、経営が長男フェルディナント・アントン・エルンスト・ポルシェになってから孫のフェルディナント・アレクサンダー・ポルシェが中心になり作られた、三代に渡るポルシェ一族の成果がポルシェ911(ポルシェ901)なんです。

911を作った訳ではありませんがそれでもポルシェの始祖として様々な偉業を行っていき、二代、三代と続いていったポルシェの根幹を築き上げた博士の歴史を記事にしたいと思います。

ポルシェ901パンフ表紙画像
ポルシェ901パンフ表紙画像
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自動車メーカー入社前

オーストリアのブリキ職人の家に生まれ家業を手伝いながら親の目を盗んで電気の勉強を始め、親の反対も有る中、自力で電源設備及び電灯、電気式ドアベルを作成し親に才能を認めさせてウィーンへの上京を果たします。

その後ウィーンにてウィーン工科大学の聴講生をしながら電気機器会社で四年を務め、モーターの特許も取得し出世していきます。
ですがその会社に元馬車メーカーのヤーコプ・ローナーの電気自動車が修理で入庫した縁で引き抜かれ以降ヤーコプ・ローナーで自動車開発へと進みます。

父親に才能を認めさせウィーンに上京した際に母親の陰ながらの応援が大きかったようです。

ここまで全く車と関係ない事に興味を持ってますがおそらく新しい技術に目が無くとても好奇心が旺盛だった為、当時新しい技術だった電気に傾倒したのだと思います。

「ポルシェが電気自動車なんて!」とタイカンの事を言う人も居るかと思いますが、この後のヤーコプ・ローナー入社後のポルシェ博士を見るとある種の先祖返りとも思えるかもしれません。

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自動車メーカー技術者時代

ポルシェ博士を電気機器会社から引き抜いたヤーコプ・ローナー社はオーストリア王室御用達の宮廷馬車メーカーだった為、宮廷に乗り付けられる静粛性の優れた自動車に注力しており、そこでポルシェ博士はハブにモーターを取り付けた(インホイールモーターの先駆け)ローナーポルシェを開発し、その後それを元にバッテリーの代わりに発電用エンジンを搭載し航続距離を伸ばしたハイブリッド車を開発(ローナーポルシェミクスデ)しました。

ポルシェ博士が最初に作った車はEVでそれを元にハイブリッド作成(日産のe-POWERの様なエンジンは発電に専念し、その電力によりモーターで駆動する方式)と現代自動車の流行とは逆流の経歴がおもしろいと思います。

その後ヤーコブ・ローナーの企業規模では私の能力が十全に発揮できないと、今のメルセデスベンツグループの元となるアウストロ・ダイムラーとダイムラー・モトーレンに入社し、自動車及び自動車以外を含めたエンジン設計を手掛けます。

この時代に作成した航空機用の空冷水平対向4気筒エンジンはのちのワーゲン搭載エンジンに非常に似ていると言われ、ポルシェの水平対向エンジンのご先祖様は航空機用エンジンだったといえるかもしれません。

他にもスポーツカーの設計もたくさん手掛けており、初期は自身もドライバーとして参加して一位を獲得したりと多才ぶりを発揮します。

この時期に自動車メーカー技術者及びレーサーとして活躍したことによってさまざまな人脈、親交ができたそうです。

この様な様々な活躍からウィーン工科大学及びシュトゥットガルト工科大学から名誉工学博士号を授与され、大学を卒業していないにも関わらず博士号を得た事により、私達ポルシェの事を知る人たちが今ではポルシェ博士と呼ぶ原因となります。

このように技術者として成功しヨーロッパ自動車界で頭角を現しますが、ポルシェ自身の注力したレース活動と小型車開発重視の姿勢が両ダイムラー経営陣と折り合いがつかず両社を退社、その後も別のメーカーで働くもダイムラーにそちらも買収され元の経営陣の下で働く事に抵抗を感じ退社。その後は雇われで働く事の限界を感じたのか自動車及び原動機の設計、企画、コンサルタント会社を立ち上げます。

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独立後

独立後、車や様々な物の設計を手掛ける中、旧ソ連で働かないかとスターリンからかなりの好待遇で打診を受けるがロシア語も覚えないといけないから無理と断ったり、ドイツからの依頼でのちのフォルクスワーゲン・タイプ1(ビートル)を製造したりと設計、企画、コンサルタント会社として様々な実績を作り現代の自動車メーカーへの土台を作り上げるが、戦後フランスにて刑務所に1年7ヶ月入り、刑務所服役中体調を崩し出所後も体調が優れず、本格生産されたフォルクスワーゲンのタイプ1の成功とポルシェ博士が服役中に息子フェルディナント・アントン・エルンスト・ポルシェが中心となり作られたポルシェ初の自社生産車両ポルシェ356の成功を見届けつつ1951年に75歳にて亡くなられました。

ポルシェ博士画像
ポルシェ博士画像
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まとめ

ポルシェとして自動車を作ったというよりも、当時の自動車業界全体に対し様々な設計、企画により貢献しヨーロッパの自動車業界に多大な利益をもたらし、その信頼と実績により息子フェルディナント・アントン・エルンスト・ポルシェの自動車メーカーとしての成功の土台を作り上げたのがポルシェ博士です。

ワーゲンやベンツ、その他多くのメーカーでの設計、企画といった、当時の自動車業界への多大な貢献がのちのポルシェの業界からの評価に結びついていったものと思います。

こーら

単車乗りだったはずが、妻と一緒に出掛けれないので車ばかりになってしまった理系オタクです。機械全般、工具等好きなものが多く興味が尽きません。単車は弄りますが車はノーマルが比較的好きです。整備やメンテナンスは自分でできる範囲は自分でやる事もあります。

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